有馬大村連合
戦国時代に島原半島全域を勢力範囲にしていた有馬氏ですが、キリシタン大名として有名な有馬晴信が家督を継いだ頃には、東の龍造寺隆信に服属するようになっていました。そこで、有馬晴信は、叔父の大村純忠とともに、有馬・大村連合を作り上げます。しかし、龍造寺隆信の勢力はさらに増大して、大村純忠は龍造寺隆信側につき、有馬晴信も息子3人を人質にとられます。
沖田畷の戦い
このような状況下で、有馬晴信は龍造寺隆信から離反し、島津氏の支援を受けるという大きな決断をしました。その結果、起きたのが沖田畷の戦いです。この戦いでは、有馬晴信の巧みな戦術で龍造寺隆信を討ち死にさせ、有馬氏は独立した戦国大名に復活しました。その後、有馬晴信は領内の神社仏閣を破壊し、キリシタンを保護します。
秀吉の九州征伐
豊臣秀吉の九州征伐の時には、島津から豊臣方に寝返ります。また、関が原の戦いでは、西軍に属しながら、東軍とも連絡を取り合い、小西行長の居城の宇土城を攻撃したことから、領国を安堵されています。
キリシタン追放令
しかし、キリシタン追放令が出てからもキリシタンを保護したため、徳川家康からは警戒されていました。
有馬晴信は岡本大八事件に連座して、甲斐に流され、切腹を命ぜられます。しかし、キリシタンの彼は自殺を拒み、斬首を願い、刑に服しました。
その後、有馬晴信の子、直純は日向延岡に移封されます。
有馬晴信の年譜
- 永禄10年(1567) 有馬義貞の子として生まれる
- 元亀2年(1571) 家督相続
- 天正12年(1584) 沖田畷の合戦で龍造寺隆信 討ち死に
- 天正15年(1587) 豊臣秀吉の九州征伐
- 慶長5年(1600) 関が原の戦いで、当初西軍、のちに小西行長の居城宇土城を攻撃
- 慶長14年(1609) マーデレ・デ・デウス号事件(ポルトガル船爆破)、有馬晴信、岡本大八に騙され賄賂を贈る(岡本大八事件)、甲斐国初鹿野に追放
- 慶長17年(1612) 斬首(切腹説もある)