武田信玄

戦国時代

武田信玄はビジネスマンに最も人気のある戦国大名ですね。甲斐源氏の名門に生まれながら、風林火山の旗のもとに巧みな采配で敵陣を切り崩し、一方で、卓越した外交手腕で敵を孤立させます。

領国経営でも信玄は他の戦国武将と比較して卓越した能力を発揮します。家臣たちから人望を失った実の父を放逐し、家督を相続すると、笛吹川の堤防工事や金山開発など、山深い甲斐の国の国力増強に努めました。

外交面でも、駿河の今川義元、小田原の北条氏康と三国同盟を結び、後顧の憂いをなくしてから、信濃侵略を進めます。

信濃侵攻にあたっても、力攻めだけでなく、買収や謀略を使って、効率的に版図を拡大します。上杉謙信とは川中島で5度戦いますが、最終的に川中島周辺の北信濃も武田領となり、確実な領国拡大につなげています。

元亀3年の上洛作戦も、一見無謀のように見えますが、朝倉義景、浅井長政、松永弾正、長島一向一揆、石山本願寺、三好義継、雑賀衆、畠山貞政などに周到に根回しして、織田徳川連合軍に対する完全な包囲網を形成しています。

三方ケ原の戦いでも、家康の性格と松平軍の軍備を研究しつくした上で、松平軍主力を三方ケ原の台地に、まんまとおびき寄せました。

今も昔も、「信玄が病に倒れなかったら」ということが言われます。おそらくは織田信長は敗死したと思われますが、信玄の持つ古い体質と高齢のため、武田政権も長続きしなかったのではないかと思われます。

でも、このあたりが、信玄の魅力として、人々から慕われているのでしょう。

武田信玄の年譜

  • 大永元年(1521) 甲斐の守護大名 武田信虎の長男として生まれる
  • 天文6年(1537) 佐久 海の口城をわずかな手勢で攻略
  • 天文10年(1541) 父 信虎を駿河に追放
  • 天文11年(1542) 諏訪頼重、高遠頼継を滅ぼす
  • 天文17年(1548) 村上義清と上田原に戦い、多大の損害を出す
  • 天文19年(1550) 小笠原長時を破るが、村上義清と戸石で戦い敗戦
  • 天文22年(1553) 村上義清を破る。第1回川中島合戦
  • 弘治元年(1555) 第2回川中島合戦
  • 弘治3年(1557) 第3回川中島合戦
  • 永禄4年(1561) 第4回川中島合戦。武田信繁、山本勘助ら討ち死
  • 永禄7年(1564) 第5回川中島合戦
  • 永禄9年(1566) 上野 箕輪城を攻略
  • 永禄12年(1569) 小田原城攻撃後、三増峠で北条勢を撃破。駿河府中城を攻略
  • 元亀3年(1572) 三方ヶ原の戦いで徳川家康を撃破
  • 天正元年(1573) 信玄、病により武田軍退却するも、信州駒場で信玄逝去。享年53

 

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