大野治長

大野治長は淀君の乳母の大蔵卿局の子で、その関係から大阪冬の陣、夏の陣の時に豊臣家の家老的な役割を果たしました。

関が原の戦いで東軍に参加するなど、もともと家康との和平を目指していましたが、その政治力、外交力の不足から、真田幸村などの主戦派に引きずられる形で、大阪冬の陣に至ります。

ここでの善戦によって、豊臣家が家康政権下で1大名としての生き残ることを難しくしてしまったのは、歴史の皮肉でしょうか。

大野治長は大阪夏の陣においても、徳川秀忠の娘で豊臣秀頼の正室として大阪城にいた千姫を助けることを条件に、家康側との講和を計りますが、主戦派の仕掛けが早くて和平交渉中に会戦に至り、最後は秀頼とともに大阪城内で自害します。

徳川時代になっても、豊臣家を滅ぼした「亡国の徒」と呼ばれたり、「秀頼は淀君と大野治長の間の子である」という噂が絶えず、大野治長の評価は極めて低いですが、淀君の乳兄弟として、家康の謀略や、世の中の大きな流れの中で、世間知らずの淀君を最後まで支え続けたのは、戦国時代の武将としては特筆に値します。

 

大野治長の年譜

  • 永禄12年(1569) 京都に生まれる
  • 慶長4年(1599) 家康暗殺の疑いをかけられ下野結城に追放される
  • 慶長5年(1600) 関が原の戦いに東軍として参加
  • 慶長19年(1614) 片桐且元の追放後、豊臣家の実質的な家老となる
  • 慶長20年(1615) 大阪夏の陣で秀頼、淀君らとともに自害

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