石田三成

戦国時代

関が原の合戦の実質的な西軍のリーダーとして有名な石田三成は、冷徹な事務官僚として、少し悪いイメージが定着していますが、実際には織豊政権の発展と維持を目指して活動した、有能な政治家でした。

石田三成は晩年の豊臣秀吉を助け、秀吉死後に、朝鮮との講和、撤兵を成し遂げたのも、石田三成の政治力の賜物でした。

ただし、武将としての経験は少なく、北条征伐の時にも城攻めに相当な日時を費やしたりしています。

このあたりが、加藤清正や福島正則などの戦国武将として生きてきた人たちと対立する要因になったのでしょう。

関が原の戦いでも、1大名でありながら、巨大な力を持つ徳川家康に対抗できる西軍を組織し、小早川の裏切りがなければ、徳川政権を阻止できたかも、というところまでいったのも、石田三成の政治力の大きさをよく表していますね。

 

石田三成の年譜

  • 永禄 3年(1560) 近江の国石田村に豪族の息子として誕生
  • 天正 2年(1574) 豊臣秀吉の近習となる
  • 天正13年(1585) 5奉行の一人になる(従五位下 冶部少輔)
  • 天正18年(1590) 小田原方の館林城と忍城を攻撃
  • 文禄 4年(1595) 近江佐和山城主
  • 慶長 3年(1598) 豊臣秀吉 病没
  • 慶長 4年(1599) 徳川家康との政争に破れ佐和山城へ引退
  • 慶長 5年(1600) 徳川家康の会津攻めに乗じて兵を挙げるが、関が原で破れ、処刑される

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