山内一豊

戦国時代

「内助の功」で有名な千代の夫として有名な山内一豊ですが、彼は豊臣秀吉に早くから仕え、いつも秀吉とともに戦った生え抜きの武将です。

山内一豊は、秀吉が最初に1国1城の主となった長浜城主に抜擢されるなど、秀吉の信頼は非常に厚く、後北条氏の小田原城明け渡し後は、東海道の要衝である掛川城主をまかされています。

関が原の戦いでは、本来は西軍につくべきところですが、いち早く家康に味方することを表明して、掛川城を家康に献上します。これにより、政治的な家康へとの流れを作り、加藤清正や福島正則らの豊臣恩顧の大名が東軍につく大きなきっかけとなりました。

まさに、関が原の戦いにおける最大の功労者であり、最も秀吉に近い武将でありながら、土佐1国を与えられ、土佐藩は幕末まで繁栄しました。

「山内一豊の妻」は内助の功の美談として有名ですが、実は山内一豊の政治性を雄弁に物語っている逸話でもあるのです。すなわち、織田信長が京都で閲兵式を行う時に、できるだけりっぱな馬と豪華で華美な装束で参加するために、妻にへそくり(持参金?)の提出を求めたのが真相です。

織田信長が閲兵式を行う理由は、京の公家や足利家、畿内の武将たちに、織田軍の強さと豊かさを見せつけるのがねらいです。その意図を察した山内一豊は、織田軍一の豪華な装備で行進し、信長からお褒めの言葉を頂戴しました。そのための資金を提供したのが妻の千代であり、その妻を立てるために「内助の功」の話を広めたのも、おそらくは山内一豊その人ではなかったかと思われます。

 

山内一豊の年譜

  • 天文13年 尾張岩倉織田家の家老の家に生まれる
  • 永禄2年  織田信長により岩倉城落城
  • 天正元年  近江長浜で400石
  • 天正5年  播磨で2000石
  • 天正11年 賎ケ岳の合戦に参加して戦功をあげる
  • 天正12年 小牧長久手の戦いに参加し、近江高島郡5000石
  • 天正13年 6月若狭高浜城主、8月近江長浜城主(約2万石)
  • 天正18年 伊豆山中城攻めに参加、7月遠江掛川城主(約5万石)
  • 慶長5年  関が原の戦いに東軍として参加、土佐1国の大大名に(約20万石)
  • 慶長10年 死去(享年60)

関連記事

特集記事

TOP