武田信虎は名門 甲斐源氏の嫡流で、甲斐と佐久を平定するなど武田氏の戦国大名化に大きな役割を果たしました。
武田信虎は勇猛果敢にして、甲斐の諸豪族を武力で付き従わせ、介入してきた今川の大軍を撃破するなど、武将として優れた素質を持っていました。
また、今川家の内紛時には今川義元側について、今川義元の駿河守護就任を後押しし、その縁で、その後長く続く武田今川の同盟関係を確立するなど、外交面でも活躍しました。
しかし、内政面では見るべき政策はなく、外征費用を重税でまかなったために民心が離反し、息子晴信一派によって駿河に追放されてしまいます。
結局、武田信虎は信玄の死の直後に信濃高遠に引き取られ、孫の武田勝頼との対面も果たしますが、信玄の後を追うように翌年死去します。享年81とも言われる、豪傑の寂しい死に際でした。
武田信虎の年譜
- 明応3年(1494)甲斐守護 武田信縄の子として生まれる
- 永正4年(1507) 父の死により家督を相続し、甲斐守護となる
- 永正5年(1508) 相続に異をとなえた叔父信恵を滅ぼす
- 永正7年(1510)小山田氏を従属させる
- 永正14年(1517)今川氏親と和睦
- 永正17年(1520)大井氏と和睦
- 大永元年(1521) 武田晴信(信玄)誕生、上条河原で今川の大軍を破る
- 天文5年(1536) 今川との同盟成立
- 天文10年(1541) 佐久平定、しかし武田晴信らにより甲斐を追放され、今川家に寄食
- 天正元年(1573) 武田信玄 死去、信虎 信濃高遠に
- 天文2年(1574) 信虎 高遠で死去