加藤清正

戦国時代

 加藤清正は豊臣秀吉と同じ尾張中村の出身で、秀吉の遠縁にあたると言われております。

加藤清正は長篠の戦い、鳥取城の兵糧攻め、高松城の水攻め、小牧長久手の戦いなど、秀吉のおもだった戦いのすべてに参加しております。

また、加藤清正は賎ケ岳の7本槍の1人であり、朝鮮出兵で大活躍をしたのはあまりにも有名ですね。 関が原の戦い当時は肥後の国許にいて、政治的にも軍事的にも大きな影響力を行使できませんでしたが、東軍に属して小西行長の居城を攻めています。

関が原の戦い以後は、加藤清正は豊臣家の家老格として豊臣秀頼の延命を画して、二条城での家康と秀頼の会談を実現させます。この時に、懐に短刀を隠し持って、秀頼のそばを一歩も離れなかったのは有名な逸話ですね。  

戦さだけでなく、土木工事の才能にも優れ、熊本城をはじめ肥後各所での治水工事の後は、今でも見ることができます。

しかし、加藤清正の死後、警戒した徳川家によって肥後の加藤家は3代で改易させられてしまいます。

加藤清正の年譜

  • 永禄5年(1562年)  尾張中村に生まれる
  • 天正3年  長篠の戦いで初陣(14歳)
  • 天正11年 賎ケ岳の戦い、所領3000石
  • 天正16年 熊本城主(25万石)
  • 文禄元年  朝鮮出兵
  • 文禄2年  蔚山城で籠城
  • 慶長5年  関が原の戦いでは東軍に属し、小西行長の居城の宇土城、柳川城を攻略。54万石に加増
  • 慶長16年 家康と秀頼の二条城の会見に同席(2月)。6月死去(享年51)

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