源頼政

源平時代
    平家物語の最初の悲劇のヒーローとも言うべき源頼政(源三位頼政)は清和源氏の嫡流 源頼光の系統の摂津源氏の棟梁で、歌人としても当時から名高い人でした。しかし、源頼政は源義朝などの河内源氏と較べて勢力が弱く、終始 後白河法皇側について戦ったわりには恩賞もなく、昇進のスピードも平家に較べてきわめて遅いものでした。

    鳥羽法皇の院政末期、後白河天皇と崇徳上皇が対立していた時期に頼政は美福門院に近い立場だったようです。鳥羽法皇の崩御により後白河天皇と崇徳上皇の対立は決定的となり保元の乱が起こります。このとき、美福門院は後白河天皇を支持したために頼政も天皇方で参戦し、勝利に貢献します。しかし、この保元の乱で河内源氏の源為義とその多くの子供や摂津源氏の多田頼憲とその子供たちが処刑されるなど清和源氏全体としては大打撃を受けました。
 保元の乱の結果、藤原摂関家は凋落し、かわって信西(藤原通憲)が政権を掌握します。保元3年(1158年)に頼政は院への昇殿を許されますが、その当時、美福門院らは後白河天皇へ譲位を迫り、しかたなく後白河は上皇となって院政を敷き、二条天皇が即位します。そして後白河上皇派と二条天皇派は反信西で手を結びます。中立派と見なされていた平清盛が熊野詣に平治元年12月に熊野詣に出かけると後白河上皇派の藤原信頼が中心となってくデーターを起こして信西を殺害します。このクーデータに美福門院に近い頼政も参加しています。
 しかし後白河上皇派と二条天皇派はもともと対立していたわけで、天皇派は平清盛を味方につけ、二条天皇は六波羅の清盛邸へ脱出します。12月27日に清盛と上皇派の源義朝とが戦った時には頼政は清盛側について戦いました。
 この平治の乱の結果、平清盛が武士としては初めて政権を掌握し、頼政は平家政権下で源氏の棟梁として遇されることになります。治承2年になって平清盛の口ぞえでようやく従三位に昇り公卿に列せられました。そして翌年に出家します。頼政にとって公卿になれたことで思い残すことはなかったのかもしれません。
    ところが高倉宮以仁王は治承4年(1180年)清盛の孫の安徳天皇が即位すると、平家政権下では自分が天皇になれないことを悟り、平家打倒の令旨を諸国の源氏や大寺社に発します。そことを知った平家側は以仁王を捕縛しようとしますが以仁王は園城寺に逃れます。平家側は園城寺討伐軍を組織しますが、この中には頼政の名前もありました。
  しかし、頼政は自宅に火をかけて一族とともに園城寺に入ります。元々二条天皇派だった頼政ですから安徳天皇の即位には忸怩たる思いがあり、以仁王の平家打倒の計画に加担した可能性は考えられます。ただ、頼政はすでに出家の身であり、全盛期の平家に対して以仁王側は武力で大きく劣るわけで、高齢の頼政がどこまでかかわっていたのかは疑問の余地があります。一族の誰かが多少かかわっていたことを平家側に知られて逃れられないと思ったのかもしれませんね。
  味方になるはずだった延暦寺が平家側に寝返ったことで園城寺が危険になったため、以仁王と頼政は奈良の興福寺を目指します。以仁王が落馬したため宇治の平等院で休息していたところを平家の大軍に攻撃され頼政は自刃しました。以仁王は平等院からは脱出しましたが、平家の追っ手に打ち取られています。ただ後白河法皇の皇子である以仁王の令旨の効果は大きく、源頼朝や木曽義仲などの挙兵を促すことになりました。

    頼政は武人や政治家としてよりも歌人として名高く、今で言う写実的な歌風が当時から高く評価されており、新古今集など勅撰和歌集に計59首入集しています。そんなところも平家物語以来、歌人であり武者であった悲劇のヒーローとして、源三位頼政が非常に人気がある原因かもしれませんね。

  頼政の息子の源頼兼と源広綱は鎌倉幕府の御家人となっており、江戸城を最初に築城した太田道灌は源広綱の子孫とされています。

源三位頼政の年譜

 

  • 長治元年(1104年) 兵庫頭 源仲正の長男として生まれる。母親は藤原友実の女
  • 保延2年(1136年) 蔵人に補任
  • 久寿2年(1155年) 兵庫頭に任官。
  • 保元元年(1159年) 保元の乱で後白河天皇方の源義朝の配下として出陣
  • 保元3年(1158年) 内昇殿を許される。
  • 平治元年(1159年) 平治の乱で平清盛側として出陣
  • 治承2年(1178年) 平清盛の推薦で従三位に叙せられ公卿に列す
  • 治承3年(1179) 出家
  • 治承4年(1180年) 平家打倒を画策するも宇治川の戦いで破れ自刃

 

 

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