前田利家

戦国時代

 槍の又左衛門と呼ばれるほどの槍の名手でもあった前田利家は、小さな豪族の4男坊ということで、喧嘩はするし、派手な着物も着る美男子で、織田信長とよく似ていますね。前田利家はそのあたりがおそらく原因で、信長にかわいがられます。しかし、信長寵愛の茶坊主を斬ったことから彼は織田家を追放されます。
 桶狭間の戦いでは追放の身でありながら、織田方として活躍するのですが、それでも許されず、前田利家が織田家に戻るのは信長の美濃攻略時です。その後、信長の側近として政治力を磨き、北国方面司令官であった柴田勝家の与力となります。
 本能寺の変の後は柴田勝家に従うと見せながら、賤ケ岳の戦いで親友の豊臣秀吉側に寝返ったのはあまりにも有名ですね。
 豊臣政権下では、金沢城主として北国ににらみをきかせながら、秀頼の補佐役を命じられます。5大老の一人で権大納言として、豊臣政権の実質的なNo.2でしたが、秀吉の死の翌年に前田利家も死にます。
 その豊臣恩顧の大名としての立場と、大大名としての力から徳川幕府に最も警戒された前田家ですが、前田利家と松夫人の政治的なしたたかさが子孫にも受け継がれ、幕末まで加賀100石は安泰でした。

前田利家の年譜

  • 天文 7年(1538) 前田利昌(尾張荒子城主)の4男として誕生
  • 永禄 3年(1560) 桶狭間の合戦に参加
  • 天正 3年(1575) 越前府中城主
  • 天正 9年(1581) 能登七尾城主
  • 天正10年(1582) 本能寺の変
  • 天正11年(1583) 賤ケ岳の戦い後、金沢城主
  • 天正13年(1585) 佐々成政を攻略し、能登1国、加賀2郡、越中2郡に加増
  • 天正18年(1590) 北条攻めで上野松井田城、西牧城、武蔵八王子城を攻略
  • 慶長 2年(1597) 5大老、権大納言
  • 慶長 4年(1599) 家康を詰問(2月)、大坂城内で病没(閏3月)

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