九州の守護大名大友義鑑の重臣の吉弘鑑理の次男 吉弘鎮理は、父親や兄とともに大友宗麟に仕え、各地で武功をあげます。
特に永禄10年の高橋鑑種、秋月種実、筑紫広門らの反乱に際して活躍し、大友軍の勝利の後、大友宗麟から高橋氏の名跡を継ぎ、岩屋城と宝満城を守ることを命じられます。この時から、高橋紹運と号していたようです。
高橋紹運は立花道雪の配下として、たびたび筑前、筑後方面に出陣していましたが、耳川の戦いで大友軍が大敗すると、再び秋月氏や筑紫広門などが反旗を翻し、大友軍は筑前、筑後方面でも劣勢となります。
そこで、立花道雪は一人娘の婿養子に高橋紹運の子統虎を迎えます。これが、戦国末期きっての名将とうたわれた立花宗茂です。そして、立花道雪、高橋紹運、立花宗茂の3人で、勢力を増してきた龍造寺隆信に対抗しました。
その後、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討死すると立花・高橋連合軍は攻勢に転じて、いったんは筑後の大部分を奪い返します。しかし、立花道雪が高良山の陣中で病死すると、島津軍は龍造寺などを従えて大友領に殺到します。
このとき、高橋紹運は岩屋城に、立花宗茂は立花城に籠城します。
立花宗茂は実父の高橋紹運に、要害堅固で軍勢も多い筑紫広門らが守る宝満城に移ることを求めますが、高橋紹運は、いつ裏切るかわからない筑紫広門と同じ城に籠城するのは得策ではないこと、たとえ岩屋城が落城しても、時間を稼ぐことができれば、豊臣秀吉がやってきて島津軍は敗北することを逆に立花宗茂に説きます。
結局、高橋紹運は5万の島津軍に対して763名で岩屋城に立てこもります。
天正14年7月14日に島津軍は総攻撃をかけますが、高橋紹運は降服勧告を断り、頑強に抵抗します。
そして、7月27日高橋紹運らは玉砕しましたが、このときの島津側の戦死者は4500人と伝えられています。
島津軍は岩屋城攻めにおける損害の大きさに立花城攻撃に躊躇します。その後、8月には豊臣秀吉の命で中国・四国方面の大名が豊後に上陸し、天正15年3月には秀吉自身が25万の大軍を率いて小倉に上陸するにおよんで、立花城は救われます。
この時の功績によって立花宗茂は柳川城主として独立した大名に取り立てられます。
従来より、このことは高橋紹運が自身が玉砕することによって実の息子の立花宗茂を救った美談として伝えられていますが、むしろ立花道雪や高橋紹運の優れた政治判断や戦局分析を評価すべきではないでしょうか。
<H3>高橋紹運の年譜</H3>
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<LI>天文17年(1548) 吉弘鑑理の次男として生まれる
<LI>永禄10年(1567) 大友氏の家臣 高橋鑑種らが反乱
<LI>永禄12年(1569) 毛利氏撤退により筑前、筑後の戦いは大友氏勝利で終わる。吉弘鎮理、高橋氏の名跡を継ぎ、高橋紹運と号し、岩屋城と宝満城を与えられる
<LI>天正6年(1578) 耳川の戦いで大友軍大敗
<LI>天正9年(1581) 高橋紹運の子統虎を立花道雪の婿養子とする(のちの立花宗茂)
<LI>天正12年(1584) 沖田畷の戦いで龍造寺隆信 討死
<LI>天正13年(1585) 立花道雪 病死
<LI>天正14年(1586) 岩屋城を死守して討死。享年39
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