福島正則

戦国時代

福島正則は豊臣秀吉の親戚で、桶屋の息子という説もありますが、確証はないようです。

秀吉に小姓として仕え、賎ケ岳の7本槍の一人として戦功をあげたことは、あまりにも有名ですね。

その後も福島正則は数々の戦さで手柄を立て、朝鮮出兵にも出陣しています。また、福島正則は勇猛果敢なだけではなく、伏見城の普請を分担したりしています。

秀吉の死後は、秀吉恩顧の大名でありながら石田三成らと対立し、徳川家康の会津攻めに同行し、石田三成挙兵を聞くと、先鋒として西軍側の岐阜城を攻略。福島正則は関が原の戦いにも参加し、徳川政権樹立の立役者の一人でした。

戦後、福島正則は広島50万石の大大名となりましたが、大坂夏の陣、冬の陣で豊臣氏が滅亡したことに、後悔の念を持ったようで、晩年は飲酒にふけるようになります。

家康の死後、無断で石垣工事をしたとして福島家は信州川中島に改易となり、福島正則は近在の庄屋の家に移り住んだと伝えられています。

彼の死後、遺言により徳川家の検視の前に火葬にふされたため、福島家はとうとう取り潰されてしまいます。

関が原の戦いや大坂夏の陣、冬の陣で福島正則が徳川方についたことを批判する人もいますが、暗黒の戦国時代を終わらせるという秀吉の意思を確実に実行したという点では、彼は秀吉の1番弟子と言っても良いのではないでしょうか。

ただ、秀吉ほどの人あしらいの良さも、繊細な構想力も持たなかったことが、悲劇の原因と言えるでしょうか。

福島正則の年譜

  • 永禄4年(1561) 尾張に生まれる。母親は豊臣秀吉の父の妹。
  • 元亀3年(1572) 秀吉に仕える
  • 天正11年(1583) 賎ケ岳の戦いで先陣をつとめる(賎ケ岳の7本槍の一人)
  • 天正13年(1585) 府中(伊予今治)城主(11万石)
  • 文禄元年(1592) 朝鮮に出兵
  • 文禄4年(1595) 清洲城主(24万石)
  • 慶長5年(1600) 関が原の戦いで東軍の先鋒として戦う。戦後、広島城主(49万5千石石)
  • 元和元年(1615) 大坂夏の陣で豊臣氏滅亡
  • 元和5年(1619) 石垣の無断修復などをとがめられ、当主の福島正勝(正則の子)は川中島城主に改易(4万5千石)
  • 寛永元年(1624) 64歳で逝去。遺言により、検視前に火葬したために福島家は取り潰される

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