鍋島直茂

戦国時代

鍋島直茂は龍造寺隆信の家老として、龍造寺家を北部九州を制覇する大大名になるのに大いに貢献しました。

しかし、沖田畷の合戦で龍造寺隆信が討ち死にした後は、島津の北上によって衰退する龍造寺政家は島津の配下になってしまいます。そのような情勢の中で、鍋島直茂はいち早く豊臣秀吉に接近し、龍造寺政家を説得して、島津家から離反させ、秀吉の九州征伐後、龍造寺氏はほぼ本領を安堵されました。

関が原の戦いの時も、息子の鍋島勝茂は当初西軍として、伏見城や松坂城攻撃に参加していましたが、その裏で鍋島直茂は徳川家康に接近し、関が原の戦いの直後に、西軍側の柳川城の立花宗茂を攻撃しています。このような鍋島直茂のたくみな外交によって、関が原の戦い後も本領安堵されます。

龍造寺家の断絶の後、鍋島直茂の嫡子勝茂に肥前1国の安堵状が出され、鍋島家佐賀藩として、鍋島家は幕末まで存続します。

なお、歴代の佐賀藩主は長崎奉行であることが多く、佐賀藩は西洋の技術をいち早く取り入れて栄えます。幕末には、その技術力や軍事力から薩長土肥の一翼を担い、明治維新に大いに貢献し、大隈重信など多数の人材を輩出しました。

  • 鍋島直茂の年譜

  • 天文7年(1528) 本庄の鍋島館で鍋島清房の子として生まれる
  • 天文13年(1544) 1月23日、24日 馬場頼周らが、龍造寺家のおもだった一門6名を暗殺
  • 天文15年(1546) 大内氏らの支援により龍造寺家兼らは馬場頼周らを討伐し、居城の水ケ江城を回復
  • 天文20年(1551) 大内義隆が家臣の陶隆房の反逆で自刃、龍造寺隆信ら再び蒲池鑑盛のもとに逃亡
  • 天文22年(1553) 龍造寺隆信ら農民たちの支援を得て水ケ江城を奪還
  • 永禄元年(1558) 小弐冬尚を自刃させる
  • 元亀元年(1570) 今山合戦で鍋島直茂の進言した朝駆けにより大友の大軍を撃破
  • 天正9年(1581) 龍造寺隆信 柳川城を攻略
  • 天正12年(1584) 沖田畷の合戦で龍造寺隆信 討ち死に
  • 天正15年3月 秀吉 25万の軍勢で九州征伐
  • 天正18年(1590) 鍋島直茂 龍造寺高房の後見人となる、佐賀城主
  • 慶長5年(1600) 関が原の戦い 当初西軍、後に東軍として柳川城を攻撃
  • 慶長18年(1613) 鍋島直茂の嫡子勝茂に肥前1国の安堵状が出る
  • 元和4年(1618) 鍋島直茂81歳で大往生

 

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