1豪族にすぎなかった毛利氏を、中国地方のほとんどを領有する大大名にした立役者が毛利元就でした。
情勢に応じて、他の豪族たちと連合したり、子供たちを政略結婚させたり、謀略を使ったりと、毛利元就のことを詳しく調べると、典型的な戦国武将の姿が見えてきます。
3本の矢の話は作り話らしいですが、毛利元就は子供の教育にも熱心だったようで、4人の子供たちは毛利氏隆盛のために獅子奮迅の働きをしました。
また、孫の毛利輝元は関が原の戦いの時に石田三成によって、西軍の大将に祭り上げられますが、家臣たちの政治工作によって領土は縮小されたものの、幕末まで長州藩として毛利家は存続します。
このことからも、秀才型の政治家 毛利元就の教えが毛利家とその家臣団に連綿と受け継がれていったことがわかりますね。
毛利元就の年譜
- 明応 4年(1497) 毛利家の次男として生まれる
- 大永 3年(1523) 毛利家の当主となる(安芸吉田の郡山城主)
- 大永 4年(1524) 弟元綱を殺し、大内氏と同盟を結ぶ
- 天文 9年(1540) 尼子氏に攻撃されるが、撃退
- 天文10年(1541) 大内氏の尼子攻めに従うが敗退
- 天文19年(1550) 次男元春を吉川家の、三男隆景を小早川家の養子に送り込む
- 天文20年(1551) 陶晴賢が大内義隆を殺す
- 天文24年(1555) 厳島の戦いで陶晴賢を破る
- 弘治 3年(1557) 大内義長を滅ぼし、大内領を併合
- 永禄 5年(1562) 尼子攻め
- 元亀 2年(1571) 尼子氏再興を図る山中鹿之助を討伐、病没