小西行長

戦国時代

 小西行長は堺の貿易商の子供に生まれながら、豊臣秀吉に見出されて、水軍の大将として朝鮮出兵の第1陣の指揮を任されるまでの武将となりました。しかし本来、平和の中で貿易で国を富まそうと考えていた小西行長は、平壌攻略後、和平を画策します。このことが武断派の加藤清正たちとの溝を深めることになりました。ただ、彼は武将としても優れており、慶長の役でも朝鮮水軍を破るなどの数々の武功を立てています。

 秀吉が病没した後は、石田三成らとともに、豊臣政権の存続を目指しますが、関が原の戦いで破れて処刑されました。
 小西行長はキリシタン大名としても有名で、かれのキリシタン優遇策が後の天草四郎の乱の伏線になっています。

小西行長の年譜

  • 弘治 3年(1557) 堺の豪商の息子として誕生
  • 天正13年(1585) 従五位下 摂津守
  • 天正16年(1588) 肥後宇土城主(24万石)
  • 文禄 元年(1592) 朝鮮出兵の第1陣の大将となり、ピョンヤンまで進出
  • 文禄 2年(1593) 明朝鮮連合軍に破れピョンヤンを退却、明と休戦
  • 慶長 2年(1597) 朝鮮に再出兵、朝鮮水軍を巨済島で撃破
  • 慶長 3年(1598) 秀吉死去により朝鮮より撤兵
  • 慶長 5年(1599) 関が原の戦いで西軍として参戦し破れ、処刑される

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