戸次鑑連 = 立花道雪
戸次氏は九州の名門守護大名である大友氏の分家です。戸次鑑連(べっきあきつら)も大友氏の重臣として大友宗麟に仕えていました。戸次鑑連はのちに滅亡した同じ大友一族の立花氏を継ぎ、のちに出家して道雪と名乗りました。
そこで、ここでは最初から戸次鑑連のことを立花道雪と表記します。
立花道雪が活躍した時代は、九州の3代勢力であった少弐、大友、島津のうち、少弐氏が没落し、かわって山口の大内氏が来た九州に勢力を伸ばしてきておりました。
二階崩れの変
立花道雪は幼い時に母親をなくし、継母(臼杵鑑速の姉)によって育てられます。
若くして家督をついだ立花道雪は大友家に仕えますが、二階崩れの変で大友義鎮(のちの大友宗麟)を支持し、その後、大友宗麟の武将として、はなばなしい活躍をします。
毛利方と戦う
当初、立花道雪はおもに肥後の菊池氏を攻撃していましたが、菊池氏が滅びると、筑前、筑後方面で、毛利氏方の諸将と対峙しました。特に永禄10年から12年にかけては、毛利氏の援護をうけた秋月種実、高橋鑑種、筑紫広門、立花鑑載らと死闘を演じています。
立花山城主
毛利氏撤退後、筑前方面の大友軍の総大将格として、名門の立花姓を賜り、立花山城主となります。その後、大友宗麟は戸次統連に立花氏の家督を譲るように求めましたが、その能力なしとして立花道雪は拒否します。
彼は、実力のある重臣の薦野増時を養子にしようとしますが、断られたため、一人娘の誾千代に家督を譲り、立花山城の女城主とします。そして、のちに高橋紹運の子統虎を婿養子に迎えることになるのですが、彼が勇猛果敢な武将として有名な立花宗茂です。
この一連の騒動の中で、立花道雪は立花の名跡と立花山城主は血筋ではなく、実力のあるものでなくてはならないという立場を貫き通します。立花山城主は筑前の要の城であり、貿易港博多を押さえるのにどうしても必要で、この城が大友家の命運を決めるということを、よく理解していたようです。
大友氏の衰退と道雪の死</h2
しかし、耳川での大敗以降、大友氏は衰退し、北上する島津軍に対して、立花道雪と高橋紹運が筑後で大友氏を支えていましたが、73歳の立花道雪はついに高良山の陣中で病没します。
立花道雪は死に際して「自分の死後、遺骸に甲冑を着せ、柳川の方に向けてこの地に埋めよ」と遺言したのは有名な話ですが、実際には養子の立花宗茂は立花山麓の梅岳寺に埋葬しています。
立花道雪の評価
武将としての立花道雪を見ると、肥後、筑前、筑後でほぼ毎年のように軍事行動をしております。これは、大友氏が貿易による利益を軍事面につぎ込んでいたからこそできたことでしょう。
しかし、大友氏は、毛利、龍造寺、島津といった大大名たちの驚異にさらされ続けています。
これは、二階崩れの変というクーデターの形で大友宗麟が全権を握ったために、大友氏が完全な形での戦国大名化できていなかったこと、大友宗麟の人物的な問題によって、家臣の離反が相次いだこと、大地震により港などに大きな被害がでたこと、などによるものです。
また、軍事的にも、立花道雪は城攻めや、複数の山城を連携させて、敵の大軍を食い止めるのは得意でしたが、平地での会戦では、必ずしも大きな成果をあげているわけではありません。
軍事技術面でも、立花道雪をはじめとする大友軍は毛利や島津に遅れをとっていたようです。
その中で、立花道雪は部下の妻子に手をつけた大友宗麟を諫言し、立花山城主に自分の親戚ではなく高橋紹運の子を迎えるなど、一途に大友氏を支え続けます。このような生き方が、当時から現在に至るまで、立花道雪の人気が高い理由なのでしょうね。
なおタイトルの写真は立花道雪が城主をつとめた立花山城跡から博多の港を眺めたものです。博多湾を一望できる立花山の重要性がよくわかりますね。
立花道雪の年賦
- 永正10年(1513) 豊後鎧岳城主戸次親家の子として生まれる
- 大永6年(1526) 父の死により戸次氏の家督を相続
- 天文19年(1550) 二階崩れの変で大友義鎮(のちの大友宗麟)を支持。肥後侵攻
- 天文23年(1554) 肥後の菊池義武を滅ぼす
- 弘治3年(1557) 秋月文種を滅ぼす
- 永禄4年(1561) 加判衆に任じられる
- 永禄10年(1567) 毛利氏に通じた秋月種実、高橋鑑種、筑紫広門、立花鑑載らと戦う
- 永禄12年(1569) 毛利氏撤退により筑前、筑後の戦いは大友氏勝利で終わる
- 元亀2年(1571) 立花姓を賜り、立花山城主
- 天正3年(1575) 一人娘の誾千代に家督を譲り、立花山城主とする
- 天正6年(1578) 耳川の戦いで大友軍大敗
- 天正9年(1581) 高橋紹運の子統虎を婿養子に迎える(のちの立花宗茂)
- 天正13年(1585) 高良山の陣中にて病死。享年73