高坂弾正(昌信)は石和の豪農春日氏の生まれで、最初は春日源助、のちに春日虎綱と名乗っていたようです。
抜群の美貌?で武田晴信に奥小姓として召抱えられます。武田晴信が高坂昌信に浮気?を詫びた書状が現存しており、相当に深い仲だったと思われます。
長じて後は、用兵が極めて巧みで高坂弾正は「逃げの弾正」と呼ばれていました。
武田信玄の信頼は絶大で、最前線の重要な城の城主を歴任し、川中島の決戦後は北信濃全域を任されています。その功績で信濃の名家高坂家の名跡を継いで高坂弾正忠昌信と名乗ります。
長篠の戦いで破れた武田勝頼を出迎えたのも高坂弾正でしたが、その3年後に病死します。
高坂弾正は武田の最盛期を駆け抜けた武将と言えるでしょう。
高坂弾正の年譜
- 大永7年(1527) 石和の豪農 春日大隈の子として生まれる
- 天文11年(1542) 武田晴信の奥小姓として出仕
- 天文21年(1552) 信州小岩嶽城攻めの功により侍大将
- 天文22年(1553) 小諸城主
- 弘治2年(1556) 雨飾城主
- 永禄2年(1559) 海津城主
- 天正6年(1578) 病死。享年52