武田晴信の傅役
板垣氏は甲斐源氏の傍流にあたり、板垣信方は武田信虎、武田晴信(信玄)の2代にわたって仕えました。
板垣信方は武田晴信の傅役となっています。勇猛果敢な武将として知られ、武田信虎の信濃国佐久郡侵攻作戦に従軍し活躍したとの記録があります。
天文10年の武田信虎追放劇では主導的な役割を果たし、武田晴信政権樹立後は甘利虎泰とともに「両職」として、政治、軍事の両面で信玄を支えました。甲陽軍艦では山本勘助を推薦したのも板垣信方ということになっています。
諏訪郡代
諏訪氏攻略後は諏訪の郡代(上原城代)として、信濃経営の基礎を築きました。
武田軍が志賀城を包囲すると関東管領の上杉憲正が後詰に来ます。このとき板垣信方は甘利虎泰とともに別動隊として小田井原で関東管領軍を撃破しました。
上田原の戦い
村上義清との上田原の戦いでは緒戦の勝利に油断し、村上軍の急襲で壮絶な戦死を遂げます。彼の死で武田軍は総崩れとなり甘利虎泰などの有力武将を多く失うことになります。
板垣信方については、晴信を助ける宿老としての側面と、自らが信濃での戦国大名化を目指す豪族としての両面があるようで、甲陽軍艦などの軍記物では後者の立場を非難する記述が目立ちます。しかし、後者はあくまでも晴信が凡庸であったらの話であり、実際に武田家にとって代わろうという行動を起こしていたわけではありません。
その後
信方の子の信憲は父の死後、諏訪城代となりますが、天文21年に武田晴信によって処刑されています。
その後、於曽光経が板垣信安となって板垣家を再興し、勝頼の時代に駿河田中城主となります。
なお、明治時代の自由民権運動家の板垣退助は信方の直系の子孫と称しておりました。それによると信方の孫が浪人中に関が原の戦いで山内一豊軍に参加し、後に山内家の重臣乾家の養子となったということです。板垣退助はもともと乾姓でしたが、このことにより板垣姓に改姓しています。
板垣信方の年譜
- 天文9年(1540) 武田信虎の信濃国佐久郡侵攻作戦に従軍
- 天文10年(1541)武田信虎、信濃国へ追放される
- 天文11年(1542)諏訪へ侵攻、諏訪頼重自害、高遠頼継を安国寺の戦いで破る
- 天文14年(1545)信濃の龍ヶ崎城を攻略
- 天文16年(1547)佐久郡に志賀城を包囲、小田井原の戦いで関東管領上杉憲政に大勝
- 天文17年(1548)上田原の戦いで討ち死に