蒲生氏郷は近江日野城主で六角承禎の重臣の蒲生賢秀の子で、秀吉や光秀、清正などよりは出自がかなり良いわけですが、彼らほどの強い印象を与えないのは、やはり「豪族の子」であるからでしょうか。
ただ、本能寺の変の時に多くの武将が様子見をしていた時に、いち早く信長の夫人たちをかくまい、豊臣秀吉に従う姿勢を明確にします。これが後に秀吉が三法師をかついで、実質上の信長の後継者になる伏線になります。
その後、蒲生氏郷は小牧長久手の合戦の功により、伊勢松ケ島城主となります。彼はこの地を松阪とし、城下町を整備し、商人を呼び寄せます。これが、江戸時代以降に繁栄する松阪商人(伊勢商人)の始まりですね。
さらに小田原攻めでも戦功のあった蒲生氏郷は会津若松城主となります。これは江戸の徳川家康と仙台の伊達正宗の両方に睨みを利かせようと秀吉が考えたのでしょう。
そして、奥州で葛西氏や大崎氏の反乱が起こるといち早く鎮圧し、結局、92万石の大大名に出世します。
その後も文禄の役で名護屋城で秀吉の側に仕えたり、陸奥の国の検地を行ったりと大活躍でしたが、直腸がんにより40歳の若さで死んでしまいます。
蒲生氏郷がもっと長生きしていたら、家康は天下を取れなかったかもしれませんね。
ちなみに氏郷の急死によって家督相続した嫡男の秀行はまだ若く病弱であったために豊臣政権からは不安視され、紆余曲折ののち慶長3年(1598)に宇都宮18万石に減封になっています。しかし、家康の娘を妻としていたことから関ケ原の戦い時には宇都宮で上杉氏に睨みをきかせていました。その結果、翌年、会津60万石に戻ることになります。ただ会津地震などの心労のためか慶長17年(1612)に30歳の若さで死去しました。
それで氏郷の孫の忠郷が10歳で家督を相続します。大坂の陣では江戸留守居、福島正則や最上義俊の改易に際しては広島城、山形城の城受け取りの大任を果たしています。しかし、疱瘡になって寛永4年(1627)に26歳で病没しました。
蒲生家は忠郷の弟の忠知への家督相続が許されたものの伊予松山24万石へ減封になり、その忠知も寛永11年(1634)に京の藩邸で急死しました。享年31。
3代にわたり4人の当主が若死にした蒲生家はここでお家断絶となります。幕末まで続いた大名家と何が違っていたのでしょうか?
蒲生氏郷
- 弘治2年(1556) 近江日野城主 蒲生賢秀の子として誕生
- 永禄12年(1568) 蒲生賢秀、織田信長に降伏。氏郷は岐阜城で人質となる
- 天正10年(1582) 本能寺の変の時に信長の夫人たちを日野城にかくまう
- 天正12年(1584) 小牧長久手の戦い時に伊勢方面で織田信雄方を攻撃、戦後、伊勢松ヶ島城主(12万石)
- 天正16年(1588)松坂城築城
- 天正18年(1590) 小田原攻めの後、会津若松城主(42万石)
- 天正19年(1591) 葛西、大崎の反乱を鎮圧。92万石に加増
- 文禄2年(1593)朝鮮出兵準備中の名護屋城で発病
- 文禄4年(1595) 京で病死(40歳)